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PERSIAN CARPET

プロダクトプランニングセンターK&Mがお届けするペルシア絨毯情報

シルクロードとカーペットベルト

Page Contents

順番記号
1.シルクロード Silk Road

1877年、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが著した『ヒーナChina』の中で用いられた「ザイデン・シュトラーセ(絹の諸道)」という言葉が、英訳され、その重要性と的確な表現が広く認識されて、頻繁に用いられるようになった。これがシルクロードすなわち「絹の道」である。英語では一般に「シルク・ルートSilk Route」、中国語で「絲綢之路(sichou-zhi-lu)」、ペルシア語では「ラーヘ・アブリーシャム」、トルコ語で「イペック・ヨル(ipek yol)」となる。

 

シルクロードとは、中国の絹が遥かローマへと運ばれたことに由来する言葉であるが、絹以外にも多くの文物やそれに伴う文化が運ばれた、いわゆる東西文化交流の大動脈といえるものであった。「絹の道」のみならず「仏の道」であり「彩陶の道」「玉(ぎょく)の道」「ガラスの道」「染料の道」「紙の道」「香料の道」、そして「文様の道」でもあった。シルクロードが東西文化を結ぶ交流路であることから、広義のシルクロードは時代とルートを替えた3つのシルクロードという概念にまとめられている。

① 草原のシルクロード (ステップルート) 北緯50度付近の紀元前からの古代シルクロード

② 砂漠のシルクロード (オアシスルート) 北緯40度、古代から近世にわたるシルクロード

③ 海のシルクロード (南海/海上ルート) アジア南海部の大航海時代の近世シルクロード

このシルクロードは、日本では1980年4月から放送が開始されたNHKの特集番組「シルクロード」で、一大ブームを巻き起こした。この中国西域での取材からスタートした「シルクロード」は1983年にローマまでの第2部が、1988年には「海のシルクロード」が放送された。また、2007年には「新シルクロード」も放送されている。出版物にもシルクロードのタイトルが数多く見られる。

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2.カーペット・ベルト

まり知られていないが、シルクロード一帯は、また「カーペット・ベルト」という異名をもつ。これは、絨毯づくりの伝統を有する地域が、シルクロード沿道一帯に帯状にひろがっていることから、そう呼ばれるようになったものである。このことは、シルクロードを通じて、手織り絨毯文化に、何らかの伝播交流があったことを示している。そして、このカーペット・ベルトのひろがりは、ほぼイスラーム圏のひろがりに包括されるものとなっている。

このカーペット・ベルトを考えるとき、次の6つが絨毯発達の要因であるといわれている。

①絨毯が欠かせない環境…乾燥気候と気温差の著しい厳しい環境下にある地域。

②原材料の入手が容易…絨毯に適した羊毛の供給が潤沢であった。

③絨毯の必要な住環境…常に移動する遊牧の住居形式あるいは家具を使わない床生活である。

④流通ルートがある…東西交流の交易路に生産地があったこと。

⑤絨毯が使用される機会が多い…礼拝時に絨毯を使用するイスラームの習慣

⑥染織技術の伝統を有する…古くから染織技術の伝統をもつ諸都市があった。

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3.カーペットベルト/手織り絨毯の歴史概要

①最古の絨毯  

Pazyryk Carpet & a saddle cover at Bash-Adar

ロシアの考古学者ルデンコは、1949年、南シベリアのアルタイ山中で、遊牧民スキタイ系マッサゲタイの王墓と思われるパズィルィク古墳5号を発掘。偶然にも氷に閉ざされていたため劣化を免れた約2m四方の絨毯が発見され、紀元前5~3世紀頃のものとわかった。(第5号墳は1991年のデータではB.C.390~B.C.370とされている) その絨毯の製作技術は今日のものと変わらない高度なもので、閉鎖型・左右均等結び(トルコ結び)が用いられていた。

その織り密度は3600k/dm2(232k/in2)である。また、ルデンコはその数年後、パズィルィク渓谷の西約180kmのバシャダール古墳でさらに密度の高い織りをもつ絨毯の断片を発見。

こちらは開放型・左右非均等結び(ペルシア結び)で、パズィルィクの絨毯より、さらに130~170年遡るものであった。またその織り密度は7,000k/dm2(452k/in2)とさらに細かい。

手織り絨毯の起源は、現存する最古の絨毯を基準に類推されている。このパズィルィク絨毯は、すでに技術的にも意匠的にも近年のものとそれほど変わらない、かなり進化したものであったことから、絨毯の起源はこれよりさらに遡るものとされ、今から3千年前とも5千年前とも考えられている。

◆パズィルィク絨毯  

約183×198㎝ ロシア、サンクトペテルブルグ、エルミタージュ美術館蔵

デザインは、5本のボーダーをもち、内外の細いガードにはグリフィン走獣文、中央の細いガードには花文、外の太いボーダーには28体の騎馬像と馬を引き連れた戦士像、内の太いボーダーには24頭のへら鹿(黄鹿)、センターのフィールドは、アッシリア宮殿の入口にある石彫を思わせる花文デザイン(light-symbol cross)の反復文が4×6で配されている。赤の染料にはケルメスが使用されていた。起源に関しては、中央アジア説、アルメニア説、東アケメネスの辺境部にあたるパズィルィク近辺説、アケメネス朝の中心地説などさまざま。

 

②その後の出土絨毯

その後の絨毯の足跡は、イラク西南砂漠の洞窟遺跡アッタール出土断片で1~3世紀、シリアの都市遺跡ドゥラ・エウロポス出土の断片で、3世紀頃のものとされている。東トルキスタンのタリム盆地ではイギリスの考古学者オーレル・スタインが、楼蘭(ローラン)、吐魯番(トゥルファン)で、3~6世紀頃の絨毯断片を発見。また、庫車 (クチャ)で、5~6世紀頃の絨毯の断片が、ドイツの東洋学者ル・コックによって発掘されている。そして、エジプトのカイロに近いフスタートからは7~9世紀頃のものとされる絨毯断片の数かずが出土している。この中にサンフランシスコにある動物文のフスタート絨毯も含まれる。これらはいずれも乾燥地帯という特殊性の中で腐食を免れて残されたものといえる。イランでは、パルティア王国(前250-後224)とサーサーン朝(224-651)時代の遺跡シャハレ・グーミースから出土した染織品にパイル絨毯の断片が付着しており、これが最も古いペルシア絨毯の考古資料となっている。

③ 絨毯の傍証資料

これら古い出土絨毯のほかにも絨毯の足跡はみられる。それは文学や絵画に残された資料によるものである。アラブの史家タバリー(839-923)などが言及している7世紀クテシフォン宮殿の豪華な織物「ホスロー王の春」、10世紀のペルシアの地理書、13世紀マルコ・ポーロのアナトリアの記述、またそれ以降、中央アジア・西アジアを訪れたアラブや西洋の旅行家の記録などに散見されるさまざまな記述である。絵画のジャンルでいえば、古代遺跡のレリーフ、敦煌の壁画、宋や元の絵画、ペルシアやトルコのミニアチュール(写本の挿画−細密画)などが挙げられる。

 

④ヨーロッパに渡った絨毯

絵画資料に関しては、ルネッサンス期に宗教画、肖像画など描写が正確な写実となることで、傍証資料としての価値がおおいに高まった。14~18世紀にかけてのイタリア・北方ルネッサンス以降の絵画にはアナトリア(小アジア)でつくられた絨毯が頻繁に描かれており、クリヴェッリやホルバイン、ロットーなど画家の名をつけた文様の絨毯がヨーロッパでもてはやされている。13世紀セルジューク・トルコの幾何学文絨毯、14~16世紀の動物文絨毯、14世紀以降のオスマン帝国時代の幾何学文絨毯などのアナトリア産とされる絨毯がヨーロッパ各地やトルコのモスクなどで見つかっている。その後オランダ絵画にも東インド会社を通じて舶載された絨毯なども描かれている。

 

⑤ペルシア絨毯の開花

イランにおいても同様に絨毯づくりは盛んに行われていたと思われるが、著しく発達するのは、アケメネス、サーサーンに続くペルシア人による大帝国が復興された16世紀のサファヴィー朝からである。シャー・タフマースプやシャー・アッバースⅠ世の時代はペルシア絨毯の古典期とされており、アナトリアの絨毯とはまた異なった緻密な曲線を扱った文様のペルシア絨毯の名品が生み出されている。とくにアッバース大帝の治世には、エスファハーンに都が遷され、新しい首都建設による需要で、数多くの絨毯工房が新設され、金糸・銀糸を使った絹の絨毯(ポロネーズ絨毯)など華麗な絨毯が製作されるようになり、インドのムガル朝やトルコのオスマン朝などに大きな影響を与えた。

 

⑥ペルシア絨毯の復興

18世紀、サファヴィー朝はアフガーン人の侵略に遭い、絨毯の生産も一部を除き衰退した。19世紀後半、ヨーロッパから蔓延した病原菌により蚕が絶滅し、それまで主要な輸出品目であった生糸の代替品目として浮上したのが、ペルシア絨毯だったといわれる。ウィーン万博などで紹介されたペルシア絨毯は、ヨーロッパで人気を博し、その需要に応えるため盛んに生産されるようになる。国内、国外資本がイラン全土の産地に投入され、ペルシア絨毯はやがて輸出品目のトップに躍り出た。第1次世界大戦で市場がヨーロッパからアメリカに移行したりはしたが、ガージャール朝から20世紀のパハラヴィー朝にも絨毯製作は引き継がれ、世界のペルシア絨毯の名を不動のものとした。このように、ペルシア絨毯は長い歴史と伝統に培われたその美しい文様と高い品質が認められ、オリエンタリズムの風潮に乗り、世界の人々に愛好されるようになった。1979年、イランはイスラーム革命により王制に終止符を打つが、絨毯産業は国の重要な輸出品目となっている。

 

⑦手織り絨毯の日本への伝来

日本への絨毯や羊毛製品の舶来は、古くからの大陸との交易や朝貢の中でたびたびあったものと思われる。最初の記録は3世紀初め魏の明帝が卑弥呼に贈った氈(羊毛製品)15張で、8世紀正倉院に伝わる中国の花氈もあるが、本格的に日本に絨毯がもたらされるのは17世紀以降のことである。徳川家伝来の絨毯や京の夏の風物詩、祇園祭の山鉾を飾る懸装品に見られる絨毯などが、その代表である。また、豊臣秀吉が所用したと伝えられる陣羽織は、ペルシアの工房で織られた絹の綴れ織り(ゲリーム=キリム)を仕立て直したものである。このように絨毯は、異国趣味豊かな文物として、時の権力者や大名、豪商に好んで愛用されたものと思われる。

ペルシア絨毯について/発展の歴史とその概要

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