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PERSIAN CARPET

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ペルシア絨毯情報

■ペルシア絨毯のデザイナー

 

アハマド(アフマド)・アルチャング

Ahmad Archang  (1914-1990)

芸術の街エスファハーンに生まれたアハマド・アルチャングは、幼い頃から画業に勤しみ、弱冠19歳にしてデザイナーとして独立。24歳ですでに実業家としてもその手腕を発揮した。彼の絨毯デザインは、セイラフィヤーン工房をはじめ、ダルダシュティー工房、ダーヴァリー工房など数多くの工房が採用し、エスファハーンにおける絨毯デザインの第一人者の地位を確立した。彼はエマーム・モスク補修のためのタイル・デザインを手がけたほか、デザイン・スクールも開設。晩年再婚するが、亡くなるまで芸術分野で幅広い活躍をした。アハマドは、モハンマドと同じ語源の「称賛された」という意味の男子名。アルチャングという姓は、おそらくアルジャング(Arzhang)から派生した名と思われる。アルジャングとは、「価値ある」「尊敬すべき」を意味するパルティア語といわれる。この名は『シャー・ナーメ(王書)』に登場するトゥーラーンの戦士アルジャング(Arzhang)が有名であるが、もうひとつ、サーサーン朝時代、マニ教の始祖マーニー(276没)が著したといわれる画帳の名でもある。これはミニアチュールの元祖のひとつともいわれるもので、こちらからの命名と考えた方が妥当と思われる。

 

ミールザー=アーガー・エマーミー

Mirza-Aqa(Agha) Emami  (1881-1955)

ミールザー=アーガー・エマーミーの名で知られる著名なエスファハーンの芸術家、細密画家。正式名は、モハンマド=メヘディー・エマーミー、1879年生まれとも記されている。父の名はモハンマド=ホセインで、ガージャール期に活躍した書道家であり、画家であった。幼い頃から父に絵画を学び、その才能を開花させる。1938年に授賞の栄誉に浴するものの貧困のうちに生涯を閉じる。後述するペルシア絵画の泰斗ファルシュチヤーンも彼に師事した。ミールザー(王子)もアーガー(紳士)もともに称号名である。本人の名モハンマド=メヘディー、父の名モハンマド=ホセインは、預言者名モハンマドのあとに12代目と3代目のイマーム名がつけられている。姓のエマーミーは、イマーム(ペルシア語読みではエマーム)すなわち「導師、優れた学者」のような人といった意味である。イマームという言葉は、シーア派が主流であるイランではイスラーム全般で使われる単に導師という以上に、宗教的にも最高位の意味合いを有している。エマーミーEmamiは、アラビア語の音に準じてラテン文字でImamiと表記されている場合もある。

 

 

ホセイン・モサッヴェロルモルキー

Hossein Mosavverolmolki (Mosavver-ol-molki)  (1889-1969)

エスファハーンの著名な芸術家、絨毯デザイナー。1891年生まれの記述もある。ホセインは、シーア派初代イマーム・アリーの第2子で、3代イマームの名、「良い」という意味である。モサッヴェロルモルキー(Mosavverolmolki) は、分解するとMosavver + al + molk + yで、モサッヴェルは画家、モルクは王国の意味。このモルク、ペルシア語のスペル(mlk)は全く同じであるが、モルクと読めば国の意味だが、マラクと読めば天使、マレクと読めば君主、メルクと読めば財産の意味となる。アラビア語のアル(al)で結びつけられ、後に続くモルクの最初の文字(m)が月文字なのでエル(l)の音が残り、モサッヴェロルモルキー(Mosavver-ol-molki)と読み、「王国の画家のような(人) 」の意味となる。

 

イーサー・バハードリー

Issa Bahadori  (1905-1986)

エスファハーンの著名な芸術家、細密画家、絨毯デザイナー。アラーク生まれで、生年は1908年ともいわれる。テヘラーンの美術専門学校で学業を修了し独立。ゴムで絨毯デザイナーに就くが、エスファハーンで再び画業に勤しみ、教鞭を執る。国内外で数多くの賞を獲得。ファルシュチヤーンやロスタム=シーラーズィーなど、数多くのデザイナーや芸術家を指導した。

イーサーとはアラビア語のイエス(キリスト)のこと。イスラームでは、クルアーン(コーラン)にも登場する預言者のひとりである。クルアーンでは、モハンマド(ムハンマド)は最後の預言者であり、キリスト教の旧約聖書や新約聖書に登場する人物が預言者として数多く登場する。ヨーロッパからの新鮮な情報が流入し始めた時代として、さぞかし洒落た命名だったと思われる。バハードルは「勇敢な」という意味、バハードリーで「勇敢な(人、家系)」というような意味である。

 

ジャヴァード・ロスタム=シーラーズィー

Javad Rostam-Shirazi  (1914-1990)

エスファハーンの細密画家、絨毯デザイナー。後で述べるフェイゾッラー・ハギーギーの師でもあり、ハギーギー工房の絨毯デザインの多くを彼が手がけている。1919年生まれという資料もある。名のジャヴァードは「寛大な」という意味。姓の前のロスタムは、11世紀にフェルドウスィーが著したペルシア語叙事詩『シャー・ナーメ(王書)』の英雄の名。典型的なイラン名である。国民のヒーローのような名だが、気恥ずかしいのか名前として実際に使われるケースは比較的少ないといわれる。ロスタムRostamの語源としては、Raodh (成長・発達) + Takhma (勇気) とされ、姓の後のシーラーズィーはシーラーズ出身の人を意味する姓となっている。

 

マハムード(マフムード)・ファルシュチヤーン

Mahmoud Farshchian  (1930-  )

エスファハーン生まれのマハムード・ファルシュチヤーンは、父が絨毯業に関わっていた関係で、幼い頃からデザインに対する関心が高く、学校へ通うかたわらデザイン・スタジオで学び、15歳で美術学校へ移籍。ミニアチュール(細密画)を学ぶとともに、装飾デザイン全般もこなし、18歳にして、初期の作品を発表した。この早熟な芸術家は、この時すでにペルシア絵画のあらゆる技法をマスターし、24歳で海外に遊学。ペルシアの古典全般に精通した学者肌の画家として独自の画風を確立する。アメリカでの生活が長かった。世界を舞台に個展を開催、各国で数々の賞を受賞。2001年にはテヘラーンに彼のミュージアムも設立された。近年ではマシュハドのエマーム・レザー廟に置かれている棺の装飾柵のデザインを手がけるなど、芸術家としての手腕を発揮している。彼の作品はタブリーズのアーリーナサブ工房で絨毯としても織られている。マハムードはモハンマドと同じ語源の「称賛された」を意味する男子名。ファルシュチヤーンの姓は家業の絨毯(ファルシュ)業からつけられたもの。ファルシュ(farsh/絨毯) + チー(chy/を~する人という意味をつくる接尾語) + アーン(an/人物に関係する名詞につく複数語尾)と思われる。音としてはチーの長母音が後のアーンという長母音で短縮されfarshchiyan/ファルシュチヤーンとなる。

 

◆伝説の絨毯工房

現代において名のある工房は、代々受け継がれたことにより、よく知られているが、伝統が途絶えた工房は、さまざまな伝説となって今日に語り継がれている。絨毯に名が織り込まれていたことにより、アルダビール絨毯の作者マクスード・カーシャーニーは広く知られている。19世紀後半より復興を遂げたペルシア絨毯の工房で、カーシャーンのモホタシャムやタブリーズのハーッジ・ジャリーリーなどは秀逸した絨毯の代名詞のようにその名を残している。20世紀最大の巨匠といわれたマシュハドのアムー・オグリーもいまや伝説の工房となった。

都市工房のペルシャ絨毯

宮廷芸術から近代芸術への道
ヨーロッパの影響を受けた絨毯生産システム
絨毯製作の職人たち
伝説の絨毯工房
マハムード(マフムード)・ファルシュチヤーン

Page Contents

精緻で美しい曲線を駆使し、絶妙な色彩バランスで、緻密な織りの絨毯がつくられる都市の工房では、デザインから染色、織り工程の管理まで、それぞれその道を究めた達人たちが素晴らしい技を発揮する。美を追求し、至高の一枚を生みだすために切磋琢磨し、その蓄積が、誰もが認める有名工房への階段へと繋がっている。サファヴィー朝ペルシアの宮廷芸術として発達したペルシア絨毯は、サファヴィー朝崩壊後は、低迷していったが、オリエントの絨毯が欧米の注目を浴びるようになった19世紀後半から徐々に復興し、新たな創作へ向けて息を吹き返していった。この頃より、工房の活躍が顕著となり、都市の工房では海外市場を視野に入れた創作活動が活発となった。近代ペルシア絨毯の歴史は絨毯工房の足跡をトレースすることなのかもしれない。

20世紀近代ペルシア絨毯の歩みについて詳しくは、コチラから ➡️ K&Mの書籍「20世紀近代ペルシア絨毯の変遷」

 

■宮廷芸術から近代芸術への道

かつて芸術や学問は、栄華を誇る帝国、貴族などの庇護のもと発達してきた。近代においては、ある面を捉えれば、畢竟それが国家あるいは資本というパトロンに置き換わったにすぎない。サファヴィー朝、(アフシャール朝、ザンド朝)、ガージャール朝、そしてパハラヴィー朝とイランの歴史の中で、各帝国が絨毯芸術の発達に大きく寄与してきたものの、それは徐々に欧米の資本による需要促進の流れに置き換わっていった。ここで振り返ると、サファヴィー朝宮廷において、絨毯の意匠を担い庇護されてきたのは、主に写本のミニアチュール(細密画)を描く宮廷画家であった。サファヴィー朝の都エスファハーンには、この意匠を絨毯に仕上げるため、原料となる羊の飼育から製糸、染色、製織の一貫した設備を有する一角があったとも伝えられる。この製作システムはどのような変容を遂げることになるのか。さて、栄枯盛衰の理のごとく1722年のアフガーンの侵略により、この栄華を極めた街は壊滅的な打撃を被り、やがてサファヴィー朝は崩壊する。この帝国崩壊に伴い、絨毯製作も低迷し、再び絨毯づくりが活発になるのは、19世紀後半、ガージャール朝下の、絹輸出の代替産業として脚光を浴びたためであった。

■ヨーロッパの影響を受けた絨毯生産システム

ペルシア絨毯がヨーロッパで注目され始めたのは、1873年のウィーン万博がきっかけであった。ヨーロッパでオリエントの絨毯が人気を得るようになった一因には、ナポレオンのエジプト遠征に続き19世紀に始まる西欧のオリエンタリズムの影響も大きかったといえる。トルコやイランに残存していた巷の絨毯は根こそぎ欧州に持ち出され、その需要を満たすには生産に拍車をかけるしかなかったであろう。しかして1878年に絨毯はイランの輸出品目のトップにランキングされるまでになった。1881年には、スイスに起業し英国マンチェスターに本拠を置くズィーグラー商会が、西ペルシアのソルターナーバード(現アラーク)に織り工場を建設し、現地の織り職人を集めてペルシア絨毯の生産を開始した。やがて直営工場のみの生産では追いつかず、周辺の村や町で自家生産する織り子と契約し、前渡金を支払い、染色された糸と図案を提供して織らせるという問屋制家内工業の絨毯づくりシステムを広げていった。ソルターナーバードはもとより織り子の中心は女性であった。女性の細い指先は細かい丹念な仕事に向いており、絨毯織りは主に女性の仕事にふさわしいものである。この工場制手工業と問屋制家内工業の組み合わせは、イラン国内の絨毯生産者にも大きな影響を与えた。

■タブリーズの商人による絨毯生産の促進

イラン最大の交易都市タブリーズがペルシア絨毯復興に果たした役割は大きい。資本力のあるタブリーズの商人は、1890年代に入ると、大規模な工場をつくり本格的な絨毯の生産に着手した。ソルターナーバードのような田舎と異なり都会のタブリーズでは、女性はイスラームの慣習として外部での労働や時間外労働には適さず、もっぱら織り職人は男性および少年であった。ここでは、パイル糸を結ぶのに鈎針のついた道具を用いるなど効率性を求めた手法が採用された。しかし工場生産よりも主流を占めたのはやはり伝統的な家内工業であり、この両方の生産システムはタブリーズを中心とするアーザルバーイジャーン全域で採用されるようになった。

やがてタブリーズ商人の資本による絨毯づくりは、タブリーズ周辺のみならず、イラン全土に広がっていった。ケルマーンやマシュハドもタブリーズ商人によって梃入れされた産地である。このような近代化に向けた生産システムは、従来の家内工業とは少し異なった生産システムへと変容していった。

 

■絨毯製作の職人たち

近代の都市における絨毯づくりには様々な工程で多くの職人が関与する。この職人たちを統合管理するのが、工房の主宰者たちである。彼らは<オスタード>と呼ばれる。いわゆる親方である。オスタードには師匠という意味合いもある。絨毯づくりには、まずデザインが必要である。これは、本人がデザインする場合もあれば、専属のデザイナーが意匠を制作することもある。場合によってはデザインを購入することもある。デザインはドローイングという輪郭線を描くことから始まり、ペインティング(彩色)され、最終的に意匠紙<ナクシェ>という織り見本となる方眼紙に転写される。これらの作業は図案職人<ナクシェ・キャシュ>がおこなう。そして必要なパイル糸を準備するための染色の工程がある。この染色の工程は、染物職人<ラングラズ、ラングリーズあるいはサッバーグ>が行い、確立された専門職である。あとは織りの工程に移るが、この織り機の準備も専門職がある。経糸を張る経糸張り職人<チェッレ・ダヴァーン>がいる。そして織り職人<ガーリー・バーフ>が絨毯を織り進める。織りあがった絨毯は、最後の刈り込みとなるシアリングを行うが、これらは仕上げ職人<パルダーフトチー>の手による。

モハンマド・セイラフィヤーンによると、初代セイラフィヤーンの工房では、主にアハマド・アルチャングのデザインを採用し、アルチャングのデザインはアクバル・ミーナーイヤーンが色づけ、意匠紙への転写を行い、アッバース・シューレシーとアリー・ヘラドマンドが染色糸を準備したと伝えている。また、本人の最初の作品の織機設置に際しては、ミールザー=アッバース・アジャミーに手伝ってもらったと語っている。いずれもその道の巨匠である。

 

工房の主宰者をはじめ、これら多くの職人たちが、20世紀初頭からの近代ペルシア絨毯の復興劇に、それぞれ大きな役割を果たしてきたが、その中でも、絨毯制作に関わった芸術家、デザイナーたちの功績はとくに大きいとされる。

 

タブリーズの絨毯工房

アハマド(アフマド)・アルチャング

ジャヴァード・ロスタム=シーラーズィー
イーサー・バハードリー
ホセイン・モサッヴェロルモルキー
ミールザー=アーガー・エマーミー
アハマド(アフマド)・アルチャング
タブリーズの商人による絨毯生産の促進
都市工房の絨毯
ペルシア絨毯のデザイナー
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