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絨毯の歴史について「数寄の絨毯」

PERSIAN CARPET

プロダクトプランニングセンターK&Mがお届けするペルシア絨毯情報

ペルシア絨毯の歴史概要

​現存する最古の絨毯とペルシャ絨毯

手織り絨毯の起源は、ほぼ完全な形で出土したパズィルィク絨毯(紀元前紀元前5~3世紀頃)が、技術的にも、意匠的にも近年のものとそれほど変わらない、かなり進化したものであったことから、ペルシャ絨毯の起源も、おそらく今から3千年前〜5千年前まで遡るのではないかと考えられているが、定かなことはわかっていない。※パズィルィク絨毯関連page

考古資料としては、パルティア王国(前250-後224)とサーサーン朝(224-651)時代の遺跡シャハレ・グーミースからパイル絨毯の断片が出土しており、これが最も古いペルシア絨毯の考古資料となっている。

 

これら古い出土絨毯のほかにもペルシャ絨毯の足跡はみられる。それは文学や絵画に残された資料によるもので、現存するペルシア絨毯としては16世紀サファヴィー朝以前に遡る絨毯は皆無に近く、15世紀以前のペルシア絨毯がどんなものであったのか…よくわかっていない。

サファヴィー朝(1501-1736)

現存するペルシア(イラン)の絨毯は、前述したようにサファヴィー朝以降のものとされる。サファヴィー朝はサファヴィー家のシャー・イスマーイールによってイラン北西部を中心に興った王朝で、タブリーズを初期の都とした。1507年にはヘラートを攻略、ティームールの図書や多くの職人がタブリーズに移動することとなった。このサファヴィー期はペルシア絨毯の古典期と呼ばれるもので、今日のペルシア絨毯の意匠の典拠ともなっている。とくにタブリーズ次いでガズヴィーンに都があった2代目シャー・タフマースプ(在位1524-1576)とエスファハーンへ都を遷した5代目のシャー・アッバース(在位1587-1629)の時代が、美術工芸の黄金時代で、絨毯芸術も大いに発展した。1722年のアフガーンの侵入とサファヴィー朝の衰退まで、ペルシア絨毯の黄金期であった。サファヴィー期の絨毯はおよそ1500枚のこっているだけであるが、いくつかのグループに分けられており、その代表的なものは次の通りである。

①北西ペルシア産メダリオン絨毯 Medallion Carpet

30枚ほどの多芒星中央メダリオンをもつ絨毯グループ。ウールのパイル、たて糸に綿、よこ糸、綿あるいはウールが用いられていることが多い。これには16世紀北西ペルシアの宮廷画家のミニアチュール意匠を用いたといわれるミラノ、ポルディ・ペッツォーリの狩猟文絨毯も含まれる。

②絹組織メダリオン絨毯  Silk MedallionCarpet

絹の地組織をもった絨毯グループで、ロンドンのV&Aが所蔵する中央メダリオンをもつアルダビール絨毯や複数メダリオンのチェルシー絨毯などがこのグループに含まれる。

③カーシャーン産絹絨毯  Kashan Silk Carpet

カーシャーン産とされる4枚の大型絹絨毯と16枚の小型絹絨毯がこのグループに入る。ウィーンの帝王狩猟文絨毯などの中央メダリオンや動物闘争文、狩猟文で構成された絨毯も含まれる。

④花瓶文絨毯 Vase carpet

格子柄に花瓶を配したデザインの絨毯で、16-17世紀ケルマーン産とされる。花瓶文構造と呼ばれる、たて糸が綿、3本のよこ糸にウールと絹もしくは綿、パイル糸がウールの組成となっている。

⑤サングスコ絨毯 Sanguszko group

ポーランドのサングスコ家に伝わる十数枚の絨毯グループで、ケルマーン産とされ、花瓶文構造をもつ。動物闘争文を含むものが多く、代表的作品はMIHOミュージアムに所蔵されている。

⑥ヘラート産絨毯 Heart carpet

16世紀後半から17世紀初期のヘラート産とされる数十枚のグループ。メトロポリタン美術館やウィーンMAKの「帝王絨毯」などが含まれる。

⑦庭園文絨毯 Garden Carpet

水路で区切られたチャハール・バーグなどの庭園を図柄とした絨毯のグループ。その中でも最大とされるジャイプルにある庭園文絨毯などが含まれる。

⑧ポロネーズ絨毯 Polonaise Carpet

ポーランド王家の絨毯ということから誤ってポロネーズと名づけられた絨毯グループで、230枚ほどが残存する。絹絨毯に金糸・銀糸を織りこんだものもあり、祇園山鉾の懸装品にも含まれる。

⑨絹のキリム Silk Gelim

パイル絨毯ではないが、24枚ほどの絹のゲリーム(キリム)がカーシャーンやエスファハーンでつくられている。金糸・銀糸を織り込んだもの、動物闘争文や狩猟文を意匠とするものなど、絨毯の文様とも関連が深い。高台寺に伝わる秀吉の陣羽織はこのキリムを仕立て直したものである。

⑩ポルトガル絨毯 Portuguese Carpet

大きなメダリオンに、帆船と西洋の衣装を身に着けた人物、魚などが織りこまれた8枚の奇妙な絨毯グループがあり、ポルトガル絨毯の名で知られる。通常綿の地組織にペルシア結びである。

アフシャール朝(1736-1796)・ザンド朝(1750-1796)

 

1736-96年のアフシャール朝と1750-79年のザンド朝の絨毯については判然としない部分が多い。ともに混迷の時代で、現存する絨毯も少なく、資料も限られている。1722年のアフガーンの侵略に始まり、1727年のナーデル・シャーの挙兵に至り、イランの絨毯づくりはほぼ終焉を迎えたとされる。この当時、住民の強制移民により絨毯産地に変遷が生じ、文様の伝播が促進されたといわれる。とくに北西ペルシアとカフカースで顕著であった。ただ、ナーデルの死後、これら移民は再び故国へ戻っているため、それほど大きな潮流とはならなかったともいわれている。また、絨毯づくりがまったく途絶えたわけではなく、宮廷の豪華な絨毯づくりがほとんどなくなり、輸出向けにつくられることもなかったが、国内需要にはそれなりに対応しており、本来自家用である遊牧での絨毯づくりは何ら変わることなく続けられたものと思われる。

ガージャール朝(1796-1925)

ガージャール朝は、ペルシアの近代化と列強による不平等条約と領土の割譲の時代であった。ガージャール朝の時代は、ペルシア絨毯づくりの伝統的な体制や方向性に、そして結果的にペルシア絨毯そのものに劇的な変化が生じた。とくに顕著なものは、1870年代から第一次世界大戦までの織り機の数と輸出量の急激な増加である。いわゆるヨーロッパ市場の絨毯ブームであり、ペルシア絨毯の復興期とされている。ズィーグラー商会がソルターナーバードに絨毯工場を設置し、海外資本による絨毯生産も始まった。国内でもタブリーズの商人はマシュハドやケルマーンに絨毯生産のための資本投下を行うなど、絨毯産業への期待は大きく、商業的生産の基盤が築かれた。また、絨毯の意匠はヘラーティーやボテ、ミーナーハーニーなどモティーフの反復が顕著になるとともに、地域の特徴も明確になってくる。

パハラヴィー朝(1925-1979)

 

1921年にクーデターを起こしたレザー・ハーンがパハラヴィー朝を起こし、更なる近代化を進めた。レザー・シャーの亡命後は、モハンマド=レザー・シャーが継承し、最後の王制となった。絨毯の振興策はガージャール朝から引き継がれ、ナーイーンやゴムなどの新興産地も現れ、都市工房での絨毯づくりも活性化する。

イラン・イスラーム共和国 / 1979-  

 

1979年のイスラーム革命により、イランは王制の終焉を迎えるとともに、その後のイラン・イラク戦争への突入により政情は大きく転回した。アメリカとは決別したものの、絨毯産業は引き続き継続し、ヨーロッパやアラブ諸国への輸出も続いた。各産地の特色は徐々に失われ、商業化の促進とともに意匠の均一化が進むこととなった。以下、21世紀現代の主な絨毯産地を列挙しておく。

 

ペルシャ絨毯の主要産地

1.北西ペルシアの主要産地

タブリーズ、ヘリース、サラーブ、アルダビール、ホイ、マラーゲ、ザンジャーン、

ガズヴィーン、ビージャール、センネ(サナンダジュ)

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2.西ペルシアの主要産地

ハマダーン、エンジェラース、マラーイェル、フアラーハーン、アラーク、サールーグ、サラーバンド、マズラガーン、タフレシュ、(ロル)、(バフティヤーリー)、(ヤラメ)

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3.中央ペルシアの主要産地

 ヴァラーミーン、テヘラーン、ゴム、カーシャーン、エスファハーン、ジョウシャガーン、トゥーデシュク、ナーイーン、アルダカーン、タバス、ヤズド

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4.南ペルシアの主要産地

 シーラーズ、アーバーデ、(ガシュガーイー)、(ハムセ)、(アフシャール)、ケルマーン、スィールジャーン、ラーヴァル

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5.北東ペルシアの主要産地 

マシュハド、ムード、ビールジャンド、ドロフシュ、グーチャーン、(トルキャマーン)、(バルーチ)

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