シリーズ解説-パフラヴィー期のペルシア絨毯[5]
- 数寄の絨毯
- 2024年12月5日
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更新日:2024年12月28日
1975年以来、会社は8つの地域(テヘラーン、タブリーズ、マシュハド、ケルマーン、イスファハーン、ケルマーンシャー、ハマダーン、アラーク)で展開されていた。1977年には、絨毯の国内総生産量の2-3%をコントロールするようになった。イスファハーン地区では約1,000機を所有していた。1974年以前はアラーク事務所で独自の原材料を生産していたが、それ以降はカラジャの自社工場によって染料も含め供給するようになった。以前は100色用いていたのに対し、今はたった37色の標準色のみを用いるようになった。会社はすべての投入資本(情報)を提供する。ハーメル(代理人)として知られるその代理人はしばしば村の首長(キャドホダー)であった。会社は自由市場のマハルチー(代理人)が行うよりも、より高い品質の要求を強要するが、それは限られた数の意匠のものを採用するときのみである。
雇用に関するデータは推定に基づくものであり、必ずしも信用できるものとはいえないが、20世紀を通して3つの一般的な傾向を認識することができる。まず第1に、絨毯産業の雇用全体の着実な伸びは、産業自体の着実な伸びに連結していること。第2に、労働力における地方の労働者の比率が増加しており、その結果1930年までに全体の75%の労働者が、地方に属しているということ。第3に、女性及び少女が、絨毯の織りにおいて常に重要な役割を担っており、今では労働力のほぼ80%に相当しているということである。
雇用の伸長
今世紀の最初の10年の終わり(1910年頃)に、約65,000人の人々が都会の絨毯産業で働いていた。地方における数値は知られていない。アブドッラエヴ(Abdullaev)による1920年の推定では、ペルシア絨毯産業の都会の雇用は60,000人と見なしている。この数値は、1940年まで全く安定して残っており、地方における雇用数とほとんど同じである。より詳細な推定がエドワード(A.C.Edward)によってなされており(数年にわたる広範囲の個人的接触に基づくもの)、都会と地方の雇用の合計数値が1940年で250,000人以上と見なしている。この数値はアブドッラエヴの数値とほぼ合致する。それぞれの機に3-4人が従事するとすれば、である。オスタード即ち親方、ナクシャネヴィース即ち意匠の監視人、そして一人か二人のシャーゲルド即ち徒弟である。
1956年のイラン・アルマナック(年鑑)によれば、ペルシアの88の町で絨毯と綿の粗製絨毯のための機は103,492機が稼動している。およそ166,000人がこれらの機に従事している。1959年には、この産業は約231,000人の労働者を雇用し、それらのうち5,000人が政府所有の工房の労働者となっている。ほぼ10年後の1968年には、およそ400,000人の人が絨毯織りに携わり、約120,000機が稼動している。その年には、政府は地方における工芸促進のために工房産業センター(マルキャゼ・サナーイェ・ダステ・イーラーンthe Center of Cottage Industry)を設立し、1975年までに約500,000人の織り手が、3,000の事業者のもとで働くようになった。テヘラーンの社会研究機関(モアッササイェ・モターラアテ・エジュテマーイーthe Institute of Social Studies)によって発行された数値では少々異なっており、1965年に748,000人の織り手、1975年には800,000人となっている。しかしながら、これらは非専門家の織り手を含んだものとなっている。最も近年の推定では、1988年に200万人の織り手がおり、直接、間接に何らかの多価値で絨毯産業に携わる人間は500万人に及ぶとされるが、これは少し多過ぎるように思われる。
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