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シリーズ解説-パフラヴィー期のペルシア絨毯[7]

執筆者の写真: 数寄の絨毯数寄の絨毯

更新日:2024年12月28日

労働力と労働条件

織りは、ほとんどまったく女性の職業といってよく、主に若い女性のためのものである。男性は、原材料を購入し、経糸を準備し、そして完成した絨毯を売る。女性労働者は絨毯産業の全雇用の67.5%に上り、農村地区だけだと75%以上である(ILO.1973)。ケルマーンの絨毯作業場における女性や子供の労働条件は、ペルシアの労働法への最初の試みとなった。洞窟のような密室で屈み込んで働くことは、薄暗く、冷たく、湿気で、換気も悪く…多くの女性や子供が生涯、手足を不自由にさせる。労働者はしばしば骨盤や脊椎下部の硬直に悩まされ、出産困難につながる場合もある。1970年代の近年ですら、ペルシアの田舎に住む実に不釣合いなほどの数の少女が、絨毯織りの作業の条件下で被り、あるいは悪化させることとなった、くる病や他の病で被害を被ったという証拠がある。

1913年、ケルマーン州の副知事が絨毯織り産業の労働条件にいくつかの条例を導入しようと試みたことがあった。しかしながら彼は雇い主からより多くの金を引き出すための欲望により最初はそうなるものと信じていたが、ケルマーンの英国とロシアの領事の圧力でその条例を撤回せざるを得なくなった。領事たちはそこに必要な改良が導入されるべきであると提案した。とくに子供に対する密集、劣悪な換気、悲惨さを改良するよう。第1次セ勝てたい仙後、国際労働機関ILO、英国政府、そしてケルマーンのキリスト教宣教師たちは、雇い主による自発的改良を強要し、1921年に採用された。1923年12月にケルマーン総督は、強制的1日8時間労働、労働者の年齢制限、性的分別、そしてより良好な労働条件を法制化した。そして違反に対する罰金も定められた。結果として、1913年のものより大幅に情況は改善されたと広く知られている。しかしながら、1928年までに初期の条件に逆戻りしたと報告書に記されている。この結果の広報は、イラン政府に絨毯産業全体に対する新たな条例の発効を促し、そこには週48時間労働や子供の労働の全廃、改良された労働条件などが含まれている。しかしながらこれらの条例が実行された様子はない。1934年のアメリカの使節団の報告書には、「そのような改革はなんら成されておらず、おそらく真剣に考慮すべき問題でもないだろう。」と記されている。

絨毯産業の分散化構造のせいで、1946年以来、イラン政府により公布されたさまざまな労働法の適用は困難を極めてきた。それにもまして、例えば、融通の利く労働政策は、年少者の雇用に対して、企業家が市場の変動により素早く対応する余地を与えてきた。労働法は、このように1970年代も終わろうとするつい最近まで、地方では実行されずじまいであった。主となる女性の労働力も、休日や残業手当なしの長時間勤務を強いてきた。とくに出来高払い契約を締結している女性たちに対して。絨毯の需要が低い地域では、潜在失業が搾取よりもより重大な問題であった。サナンダジュ周辺では、例えば、工芸関係雇用者の48%が絨毯産業に属しているが、女性の織り手は、1971年には平均して週のうちたった27時間しか働いていない。

20世紀のはじめには、ヨーロッパの委託業者は労働力の厳格な管理を実行していた。例えば債務不履行の織り手には、身内が絨毯を織り上げるか前渡し金を返還する保証を申し出るまで、小屋に収監したりした。1930年代にイランの委託業者が産業の主流を占めるようになると、そのような方策はより間接的な管理に置き換わっていった。契約仕事は出来高制となり、それは労働力をまとめる問題が家長に移行することを意味し、その収入も生産高に左右されることになった。 それはまた織り手の間の競合へと発展した。後者は手を抜くことによってこの傾向を埋め合わせようとし、とくにジョフティー・ノットやキマンシ織りを用いることにつながり、要求される労働量を減じることになった。これらの方法は1930年代後半に広がり、テヘラーンの会社や国外取引向けの生産に勢いを増した。今やそんな手法は雇用主に唆されて、一般的になってしまった。というのも消費者は彼らのお家芸を簡単に見破ることが出来ないからである。高品質のものはそれ故、会社の現場監督の直接管理の下か、中間業者による操作の結果としてしか生産されない。例えば、ゴルパーイェガーンのオスターデ・カール(親方)は生産の全ての因子を所有し、織り手にザル(結び)によって支払うけれども、絨毯の販売価格はメーターによって決める。彼は織りや結びのためにより太い糸を供給するだろうし、サイズや織り密度は決まっているのだから、それは織り手によりしっかりと織らせ、より安いコストでより高い品質を生産させるよう仕向ける。

契約システムの下で、織り手にはせいぜい生活最低レベルの賃金が支払われるか、しばしばそれ以下である。とくにスィースターンやバルーチスターンでは1970年代、失業が深刻な問題で、小規模農家は中間業者の言いなりであった。より豊かな他地方への大移動のせいで、地域的にほとんど羊が飼育されず、小規模農家では絨毯を織るための十分な羊毛を生産することが出来なかった。材料を購入する信用機能もなかったため、近隣の町の中間業者が材料を供給した。中間業者は通常完成した絨毯の販売も取り扱い、価格の半分が織り手の手元に行く。ILOの見積では、標準的な絨毯と価格から推定すると織り手の平均的賃金は1日18リアルで、販売価格の分割りとしてか、出来高でかのいずれかで支払われていた。マルヴダシュト地区の田舎の女性の織り手は、1971年で、1日約20リアルを生産していた。ペルシアの他の場所でも、賃金の同じようなタイプや水準のものが主流であった。都会の織り手は、地方の織り手の20リアルと比較するとずっと多く受け取っており、1968年で、1日90リアルが平均であった。しかしそれでも、生活最低水準であった。(賃金は通常出来高払いであるが、他の産業分野との比較のため日当換算されている)なおその上に、これらの低い賃金は、高騰するインフレによって侵食されていた。1966-71年の間、絨毯の価格は1年に11-20%高騰しており、それは高い生産コストのせいであり、一方織り手の賃金はわずか約5%上がったのみである。1976年の報告書によれば、賃金は絨毯生産の全コストの約60%に転嫁されている。それらは先行する10年間で合計250%の上昇であるが、それなのにイラン全体の賃金構造との関係は低く抑えられたままであった。1964年に絨毯を織るのに8,000リアルのコストがかかっているのに反し、1976年には28,000リアル、後者の絨毯の価格は60,000リアルである。その都市の都会の織り手の賃金は1日120リアルから240リアルの範囲、一方技術を持たない都会の1日あたりの平均賃金は300リアルである。1978年のイスファハーンの初心者少女の織り手で1日10時間働いて10-50リアル、経験者の織り手で60-150リアル、そして高品質の織り手で200-400リアルとなっている。地方における賃金はさらに低いものであった。その後もその情況が変わることはありそうもなかった。

ただイラン・カーペット・カンパニーだけが正式の記載された契約書を発行していた。書面によるものであれ、口頭であれ、契約では絨毯のデザイン、色、寸法、織り密度が、完成日や特に優れた仕事に対する特別賞与の支払条件なども含め取り決められていた。工場も地方労働者も仕事の出来高で支払われた。その相場は、契約で明記されているようにデザインの複雑さや織りの密接度、結びの種類により決まる。ケルマーン地区の工場やほかの雇われ労働者の出来高相場は、サドネシャーン(100ネシャーン、ネシャーンとは絨毯の緯糸プードに沿って160ノット)と1,600ノット(サドネシャーンの1/10)の論理的日産に基づいている。もっとも、それほど多くの結びを1日に結んでいるわけではないけれども。契約の織り手にたいては、基本単位はギャズと呼ばれるものである。それは、1,280ネシャーン(204,800knots)に相当する。アラーク地区では、チャーラク(チャハーラクすなわち1/4、4チャーラク=1ザル 104×104cmの1/4)が出来高の基本単位となっている。村では、2-4人が1台の織り機で仕事をする。若い経験のない織り手(ポルコン)は、背景部分をこなし、よりベテランの織り手女性が文様部分の作成に当たる。パイルの密度は、単位長さ当たりのノット数(ラジ)と織り機の設置単位あたりのノット数(リーシャ)によるもので、2;1の普遍の比となっている。4つの標準値があり、70/35、80/40、90/45、100/50である。80/40の比は輸出向け品質で、70/35はより安い絨毯である。ほかの2つの比は、大変良質の絨毯となっている。(生産コストの内訳…アラーク、ザーボル、イスファハーン)織り手はしばしば前払いで月給を受け取る。続いて35日毎に支払いを案分する。前払いのため、最後の月には支払はない。毎月の検査で進捗の割合は言い争いの的となり、織り手は常にそのような言い争いでは不利な立場に追いやられる。

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