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シリーズ解説-パフラヴィー期のペルシア絨毯[6]

執筆者の写真: 数寄の絨毯数寄の絨毯

更新日:2024年12月28日

地方での進展する集中化

1930年までは、絨毯織りはもともと都会の産業活動であったが、この年に急激に変化を見せ始めた。その10年後には主要産地の機の数は表に示すとおりである。

アラークのような重要な産地では、都会の産業はまだ重要な役割を果たしている。例えば、1975年には町の商業組織9,233件の45%、すなわち4,181件が絨毯関連組織(絨毯補修者、シアリング人、デザイナーなど)で、3,440件が織り組織であった。それらのほとんどは家族の作業場であった。にもかかわらず、アラークの都会における絨毯生産は、ほかの場所のように、1930年代に比べて減少していた。よく似た情況はケルマーンにも広がっていた。1948年に4,000機が稼動していた。それが1966年には32,000人の織り手が雇用され、11,000機が稼動。そのほとんどが家庭内の作業場である。都市の機の数自体は、しかしながら、1937年以来、約35%に落ち込んでいる。

一方、第2次世界大戦以降は、以前は存在しなかった田舎の地域にも、好況の絨毯産業が発達するようになった。例えば、1948年ゴム地区のたった11の村で、おそらく地方の個人的需要のために絨毯が生産されていた。1956年の統計ではたった730人が絨毯生産に従事していると掲載されていたのが、1966年の統計では3,671、すなわち10,036家族の36%が絨毯生産に関わっているという数字となっている。全体の雇用数としては約5,000人で、ほとんどが女性と少女である。1969年のフィールド調査でも、安定した成長が確認され、ゴム地区での絨毯生産の広がりは継続していた。もう1つの重要な産地、アルダビールでは1972年に、約5,500人が絨毯産業の雇用者となっており、その60%は男性である。しかしながら、年少者(12歳以下)の雇用に関する法律を回避するため、村へと産業の着実な移行があった。政府所有のイラン・カーペット・カンパニーですら、織りを実行しているであろうほとんどが年少者であることを知りつつ親が織り契約に署名することによって法を回避していた。加えて田舎の地域への生産の移行の促進は、村人の低賃金に対する承諾であった。

他の多くの都市でほとんど絨毯はつくられなかった。代わりに周辺の田舎の地区で産業は集中した。例えば、1956年と1966年の統計によれば、ケルマーンシャーの町ではたった23の絨毯織り施設があったにすぎない。列挙された家族の仕事場の2.5%で、そこでの自宅産業の一般的減少を繁栄したものであった。一方、1968年には50軒のパイル絨毯やゲリームを扱う店がバーザールにはあり、そこではテヘラーンの絨毯市場からの代理店へ売るために、田舎からもたらされたものが持ち込まれていた。シーラーズでは、1956年の統計によると、都会の自宅の作業場のたった15.9%で絨毯や関連した製品がつくられているのに反して、周辺の地域では自宅の作業場の53.4%がそのようなことに携わっている。1965年には絨毯の製造は、部族民(とくにガシュガーイー)の間や近隣の村で比例してより重要となっている。イスファハーンのオスターン(管理区)で、1970年代の末には、都市の織りがイスファハーン自体(ゴムシャ=シャーレザー、ホマーユーンシャハル、ハーンサールなど)のみに起こっている。

しかしながら、全ての田舎の絨毯生産が市場向けのものではない。1971年のガズヴィーン周辺の45カ村の調査では、全体の約8%ほどが、ほとんどの織りが地域消費のものであった。織り手は化学染料を用い、粗悪な品物を生産していた。かつての有名なガラバーギーのデザインのものは今もつくられていたが、わずか2人の専門的な織り手によるものであった。巨大なテヘラーンの絨毯市場のそんなに接近した場所でそのような時代遅れの状態が存在することの説明は、促進や技術の支援がなされていないからである。同様の問題はサナンダジュ周辺にも存在し、そこでは投げ杼による小さな機がほとんどの家庭で行われていた。伝統的な民間のモティーフや意匠の中級あるいは粗い織りの絨毯が生産されており、それはカシュクーラ(托鉢)意匠のジャイナジャジュや、ムージュ(大きな4つのピースを縫い合わせた毛布)、簡単な縞柄の細いジャージーム、ゲリームなどである。糸は村人によりその地方のウールから紡がれたものだが、調査された73の村には染めや刈り込み、それらに類する設備はなかった。染めはサナンダジュで行われていた。

セムナーンでは、1970年代に地方においてさえ絨毯織りは重要性が皆無であった。南東ペルシアでは、1970年代末ね絨毯生産の80%以上がザーボル近辺(サンプル調査によれば71%)とバム(12%)に集中していたが、前者の地域では絨毯生産は重要性を持たず、主に村人たちの自家用のみであった。実際、1969年に地域発展のプログラムの一部としてそこにイラン・カーペット・カンパニーが設立される以前は、絨毯生産は公私ともにまったく何もなかった。1976年になっても、ザーボル周辺は、45機と90人の従事者かいたたけである。ケルマーンの織り手がスィスターンの女性を訓練するために派遣され、彼女たちは自然とケルマーンの意匠を採用するようになった。全体の生産工程は会社のコントロールのもとに残されている。

絨毯産業の地方の雇用の数や分布の最近年における信頼すべき数値は、1971年からで、国際労働機関(ILO)ペルシアの産業の広範囲の調査を実施したときに始まる。その当時、ほとんどの農家は非農業的職業のパートタイム契約を結んでおり、製造業全体で120万人のうち、絨毯の織り手は30万人であった。地方の製造業の多くは、絨毯あるいは布製品の織り手で構成されていた。5,000人未満の住民の人口集中地区では、絨毯産業における雇用の72%、布製品の織りにおける雇用の70%となっている。男性も女性も絨毯と布製品の織りに雇われており、そこでは時間給雇用と低賃金が頗る多い。労働者は、製品に対する前払いによる信用を供与する中間業者に大きく依存している。絨毯産業においては、輸出促進や生産の再組織化、機器や販売促進の改良を通して市場の発展には大きな余地が存在する。

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