top of page
執筆者の写真数寄の絨毯

シリーズ解説-パフラヴィー期のペルシア絨毯[3]

市場取引の構造は、このように仲介代理店に重く頼り切ったものであり、織り手が自立していようが、下請けで働いていようが、彼あるいは彼女はそのような仲介代理店と交渉しなければならない。とくに中間サイズ(2.5×3.5m)の絨毯の販売は、輸入国の相当な価格の柔軟性に左右されることが多かった。契約システムの極端な断片化は、皮肉なことに、絨毯の卸売り取引の集中化と寡占市場形態のほんのわずかの大企業の副次的活動につながるものであった。ほとんどバーザール外で展開される絨毯や羊毛取引の卸売り業者は、絨毯産業の中で特別の役割を演じる。彼らは村人や遊牧民から直接あるいは間接、そしてまたディーラーやバーザールの仲間うちから絨毯を購入する。彼らはまた、ウールや毛糸を織り手に供給し、ウールを染めさせる世話をし、他の工程作業にも関与する。例えばアラークには、数百の絨毯ディーラーが存在するが、取引の大半をコントロールしているのは、せいぜい20か30の業者である。彼らはダッラールやハーメルを通じて織りを管理する。テヘラーンの卸売り業者も購入や製造の手配をそのような中間業者に任せる。加えて、地方の卸売り業者はテヘラーンで販売もするだろうし、テヘラーンの会社の代理店に販売もする。

中間業者の中でも、より大きく展開する者は幾つかの機能を兼ね備える。彼らは羊の一群を所有しており、刈り取った羊毛を洗浄し、紡ぎ、染める。そして「彼らの」織り手に他の必要物とともにそれを供給する。通常は、しかしながら情況はもっと寸断されており、とくに家族が労働者を雇い入れたり、あるいは2家族以上が資産を蓄積したときなどである。いくつかの原材料は、また地方のあるいは巡回する業者から入手することもできる。彼らの料金は高いが、信用はできる。自分で染める織り手は小売業者(サガト・フォルーシュ)から色を購入するが、ほとんどの染色は大きな町にある小さな施設で行われる。染料はタージェレ・ラング(染料商人)から購入するか、テヘラーンから直接大量に購入する。専門職、例えば整経師はしばしば製作の初期段階で必要とされる。経糸をセットする費用は織り手の負担となる。ナクシャキャシェガーリー(絨毯デザイナー)によって新しい意匠が準備されることもあるが、伝統的パターンが残っている地域では彼らは必要とならない。デザインは中間業者から購入するか、購入金額の15-20%の金額を支払って借りるかする。中間業者はよい織り手の記録を保管している。これは織り手が前金を獲易いと分かることを意味している。代替労働力を見つけるのが困難なので、規律も比較的緩やかである。

閲覧数:0回0件のコメント

最新記事

すべて表示

シリーズ解説-パフラヴィー期のペルシア絨毯[4]

イスファハーン地区では、オスターデ・カール(親方)は出機の織り手のために大量の原材料を提供する。しかし、製作される絨毯の事前の権利をもつという古いピーシュフォルーシュ(前売り)の習慣は、そこにはもう存在しない。織り手は彼に金の支払い義務があるが、望めば絨毯を売るかもしれない...

シリーズ解説-パフラヴィー期のペルシア絨毯[2]

絨毯生産の組織化 1階建ての建物に20台の織り機を収容し、20人から60人の織り手、そして監督者がいるという工場での製織は、ペルシアでは常にほんのわずかしかなかった。このタイプの組織化は、よりよい品質管理が可能な許容範囲のものであるが、労働法の施行をより多くの条件とするもの...

シリーズ解説-パフラヴィー期のペルシア絨毯[1]

20世紀を通じて、雇用と国内外市場の需要の観点から見ても、絨毯産業は断然、石油精製に次ぐ最も重要なペルシアの産業であった。19世紀、海外資本によって支配されるという大きな限界性はあったものの、第1次世界大戦後は、レザー・シャーによって制定されたイラン化政策の結果として、ペル...

Comentários


bottom of page